住職のひとりごと

鳥取市にある浄土真宗本願寺派のお寺、淨宗寺の住職日記です。基本は毎日更新です。

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先月末に主治医のところで健康診断を受けたところ「胃カメラを去年は受けていないから、今年は受けなさい」と言われ、今日の予約を取りました。したがって、いつもは必ず取ることにしている朝食も今朝は《抜き》です。しかも予約時間は《朝一》のため、8時30分までに行かないといけません。何かいつもとは違った仕事が入ると、どうしても朝はバタバタになります。こんな時ほど落ち着いていることが大切なのですが、空腹も手伝ってどうなりますやら・・・。受診に出たついでに帰りがけに供花を購入しようと考えていますが、その精神的(胃袋的?)苦痛が花を選ぶことに災いしなければいいのですがねぇ。
昨日の午前中に掃き集めていた境内の公孫樹を袋に入れましたが、午後にはまた散って黄色に・・・。この《戦い》は木が裸になるまで当分続くことでしょうね。初冬の風物詩の「落ち葉で焼き芋」は市内では不可能ですから落ち葉もただ捨てるだけになり、そんなことに気を遣わなくてもよかった子供の頃が懐かしいことです。
去年の秋にご門徒からいただいた千両の鉢植えが猛暑に負けて、生き残ったのはこれだけです。

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いよいよ今年も最後の月を迎えることになりました。朝から晴天ですが言い換えれば《放射冷却現象》ですので、寒さが厳しい夜明けです。「雪が降ってくれた方が少しは寒気が和らぐのに」と思いますが、「どうして晴天の方が寒いの?」と疑問に思われるかも・・・。確かに雪が降れば寒いのは当然のことですが、それは周りすべてが寒気に包まれるからであり、それに対して今日のような日は晴天であるからこそ逆に暖気が空に抜き取られ、空気の冷たさが際立つからです。つまり、《空気の冷たさ》と《体感温度》の関係で「晴天の今日は寒い」というわけです。
ところで、昨日は丸1日かかってやっと寺報の原稿を作り上げました。ただし、出来上がった原稿は推敲もなにもせずに打ち込んだだけです。そのために内容的にも文章表記的にも粗が目立ち、読み直して気づいたところ(内容の前後のつながりや文章の流れなど)に手を入れて完成に近づきました。しかし、既に体力的にも頭脳的にもエネルギーが切れてしまったので、最終校正は翌日(つまり、今日)に持ち越しです。もっとも、この原稿が完成してもまだ印刷や封筒の住所貼り(シール)が残っていますし、封筒詰めが終わってもその発送手続きと宅配先への依頼をしなければ終了とは言えません。そう言えば、今月は役員に配るお歳暮の品(シクラメンの鉢)も同時に配って回りますので、そう考えていくとまだまだ落ち着かないことです。やはり『師走』なのですね。
(境内の隅で咲いている薔薇も寒さに震えているようです)

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11月の月末です。あいかわらず毎日バタバタした時間を過ごしていますが、特に今朝は1ケ月の《区切り》なので余計に慌ただしい気持ちでいます。別に何をしているわけではないのですがねぇ。
昨日の朝に掃き集めていた公孫樹が午後の雨でまた《濡れ落ち葉》になり、参道に張り付き気味になっているのを見て気にはなっているのですが、月末の今日は今年最後の寺報の原稿や今月分の会計決算等に引っ張られて朝から走り回っているように自分でも感じています。掲示板は昨日のうちに取り替えていたので仕事は一つ片付いているのですが、それでも右を見ると寺報の打ち込みが途中になっているPCに目がとまり、左を見ると毎月の日程を記載している手帳が目にとまったり(今日の予定の再確認)と、我ながら「心ここにあらず」です。こんなことではいけないことはよく分かっているのですが、「これは住職の仕事」と自分で線引きをしているので、自分が自分を縛って「精神的に囚われている」のかもしれません。それもこれも自分の性格がなせることなのでしょうが・・・。まったく、性格って直せないものなのでしょうかねぇ。
(今日の写真は、山門横に咲いている薄ピンクのツバキにしました)

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「ラストサムライ」ではなく「西向く侍」ですが、我々の年代ではすぐにピンと来ます。そう、12ケ月の中で31日までない月のことですが、もともとは陰暦(月の満ち欠けで計算)ですから元来《1ケ月》は30日であり、その日を「みそか」と呼んでいました。だから1年の最後は《大晦日ーおおみそか》なのですが、それが太陽の公転から計算される太陽暦になってから現在の日数になり、《大晦日》という言葉だけが今に至るまで残っているのです。また、この「西向く侍」の中の《侍》とは11月のことです。11を漢数字で書くと「十一(士)」になるからですが、その11月も明日で終わり。今年も残すところ1ケ月となりましたが、10年前の冬は豪雪で正月早々に国道が大渋滞となって車が動けなくなった年でした。昨日の『独り言』ではありませんが、「今年はラニーニャ現象が起こりやすいので、冬は寒い」とのこと。2年間も積雪がなかったのですから、せめて今年は豪雪になってコロナ菌を死滅させてほしいものです。(写真は、今朝掃き集めた公孫樹の葉です)
ところで、コロナ菌と言えば、連日の陽性患者数記録更新です。この中でオリンピック開催を強く宣言している菅さんですが、昨日の新聞によると、やはりオリンピックにあわせて祝日の移動が決まったそうです。『スポーツの日(旧体育の日)』『海の日』『山の日』の3つが7月や8月に移動するとのことですが、もう既に業者によってカレンダーや日記帳、システム手帳などは印刷されて店頭に並んでいるものあります。肝心な問題に対しては質問も何も無視しつつ、とってつけたようにコロコロと変わる政策。本当にいい加減にうんざりですね。

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昨日は今年最後の寺報の原稿作成に取りかかり、やっと半分が完成。しかし肝心の法話の方が手つかずで、いつもは出だしさえ思いつけばなんとかなるのですが、今回はそれさえも全く思い浮かんできません。何かモヤモヤしたものはあるのですがそれが何かつかむことも出来ず、結局諦めました。と言っても、なんとかして12月の中頃には発行したいものです。寺報の発行は年に5回ですが、これには[原稿→校正→印刷→封筒詰め→郵便発送と宅配の依頼]という行程があります。しかも発送するには住所記入が必要です。30年近く前は手書きでしたが、現在はPCという有り難い機械があってそれでプリントアウト出来るので助かっています。ただ、現在使っているプリンターは封筒の吸い込みが不良でいつも詰まってしまうので、今年の後半からはシールを利用していますが・・・。
この寺報を始めてから既に40年になります。発行を伝えた時に亡母から言われた「全部が読んでくれることを期待せず、半分が読んでくれればよしと思え」との言葉を胸に刻みながら、やっと199号まで来ました。最初の頃は「内容が堅くて分からないい」と言われたことがありましたし、今でも「何を書けばいいのか」と悩むこともしばしばです。以前には次号の発行まで間があるのに原稿が出来上がっているということもあったのですが、やはり気力と体力(脳の力)が衰えてきているのでしょうか?
(今日の写真は、松の下に生えている山吹の実にしました)

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今朝はいつもより早く起き出し、一仕事を終えてから取りかかったのが12月の掲示板の言葉を書くことと寺報の原稿作り。掲示板の方はすぐに書き終えたのですが、寺報の方はなかなか頭が回らなくて途中で休憩に。お茶を飲んでホッとした途端に「あっ、『独り言』がまだだった!」と・・・。10時前の今になって、やっとこの欄に取りかかっています。
今日の新聞に面白い投稿がありました。なんと、カメムシに対する手紙です。「ここ数年は『カメムシが多いから、大雪になる』と言われながらも結局は積雪0に終わったので、少ない今年は逆に大雪では?」との内容。そこまでは「そういう考えもあるか」と思って読んだのですが、最後に書かれた追伸に思わずニヤリとしました。「『ガムテープにくっつけられるから、あまり出歩かないように』の一言は、まさにコロナ禍で恐れおののいている私たちに対して《自粛》を訴えているどこかの総理みたいだなぁ」と感じたからです。まぁ、「自助・共助・公助」と言って《自己責任》を第一にしている人の《自粛》依頼した言葉ですから、カメムシと国民とを同じに捉えてしまった私の気持ちも無理からぬことでしょうが・・・。
しかし、本当に今冬はカメムシの姿をあまり見かけないですね。何の気なしに洗濯物をたたんであの独特の匂いに閉口することもないですし、ね。

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今朝の新聞には《桜》問題に対する安倍前総理の答弁が「嘘の塊」として紛糾した国会のことが大々的に取り上げられていますが、同じ新聞の2面には昨日のコロナの感染者数が載っています。結果は、「徳島を除いた47都道府県すべてに新規感染者が発生」とのこと。それまではいつも4~5県が未発生だったのに、です。しかも、コロナによる死亡者が出ていないのは48都府県中の4県のみという悲惨な現状です。これでも「Go to ~の影響はない」と胸を張って断言する人の心中は、まったく分かりません。
ところで、今日の新聞(スポーツ欄)にはSBの優勝が大きく扱われていますが、サッカー界の至宝とも《神の子》とも言われていたマラドーナ氏の死は載っていません。サッカー選手と言えば今では《メッシ》という名前がすぐに出ますが、我々の年代にはアルゼンチンの《マラドーナ》やブラジルの《ペレ》の名前がすぐに浮かんでくるほどの大選手で、日本サッカー界が世界を狙う度に大きな壁となって立ちはだかった人でもあり、また目標でもあった偉大な選手。「晩年は薬物中毒になっていた」との報道もありましたが、残念です。また、『巨人の星』『エースをねらえ』『スラムダンク』『シュート』等々その時代を代表するスポーツ漫画とともに趣味の世界を漫画という形で表した多くの人たちがいますが、その中で子供達に釣りブームを引き起こしたと言われている漫画家の矢口高雄氏(『釣りキチ三平』の作者)の訃報も今朝の新聞に載っていました。マラドーナ氏とともに矢口氏へも哀悼の意を表します。

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昨日の午後から私物を求めて買い物に出かけ、ホッと一息の《ティータイム》をとって帰りましたが、何か忘れ物が・・・。そう、肝心の電池(単三でした)を買い忘れていたのです。仕方なく「また後日に」としましたが、思わず「もしかすると認知症の初期?」と心配に。まぁそんなことはないでしょうが、最近はとみに人や物の名前が出てこず、特に花の名前がなかなか出てこなくなりました。中でもユリや蘭等は種類が増えていますので名前が出てこないのも仕方ないかもしれませんが、本当に《ど忘れ》が増えてきた感があります。そのために必ず「メモをとる」ことと「内容の確認をする」ことを心がけていますので、ご法事の日時にしても必ず「◯日の◯時ですね」と確認している昨今です。
ところで、社会人の新人に対して先輩が「ホウレンソウを忘れるな」と注意するのが普通だと聞いていますが、最近は「ホウレンソウのオヒタシ」という言葉もあるそうです。前半は新人に対する注意で、後半は先輩に対する注意だとのこと。つまり、新人には「報告・連絡・相談」の重要性を説くのに対し、先輩には職場での心構えとしての「起こらない・否定しない・(相手が困った時に)助ける・指示する」とのこと。まぁ、近年は「時間確認も腕時計でなくスマホの時計表示ですませ、中には退職届さえもメールですませる若者達がいる」と聞く時代ですから、指導する側にも相手に合わせてそれなりの変化が求められる時代になったのかもしれませんね。それがいいか悪いかは別として・・・。

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今年の当寺の大きな行事はコロナ禍でほとんどが中止になりましたが、大切な報恩講法座だけは予定通りにお勤めし、70名ほどの方々と一緒にお聴聞の機会を得て無事に終わりました。昨日は時折の小雨で山門の幕もぬれそぼり、取り外しが夕方に出来ませんでしたので、今朝の取り外しとなりました。本堂内の片付けと復元もまだ残っていますが、それについてはこれから。ただ、聖人前の供花(五具足の片方)だけは今朝早くに納骨堂へ《お下がり》させていただきました。また、境内の公孫樹は《濡れ落ち葉》になっているために掃き取れませんが、今朝の爽やかな青空を受けて少しは乾くことでしょうから、それから掃き掃除に取りかかる予定です。多分、午後からになるでしょうが・・・。
ところで、ここ数日の多忙のために単四電池を購入する時間がなく、血圧の計測が出来ていません。そのため、今日の予定表に「単四電池の購入」も書き加えています。歳を重ねるとともにどうしても血圧が高くなるそうですが、「血圧は目に見えない体調の変化を表すものだから、普段から気をつけるように」と医者にも言われていますので、常に計るようにしています。でも「目に見えない」ものだからこそ、逆に「まぁいいか」とも思って気を抜いてしまいがちになるものでもあるのですがねぇ。

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報恩講第1日目の昨日は、最後にご門徒の1人から質問が出ました。「戦国時代における僧兵の是非」と「宗教の怖さ」についてでしたが、さすがに御講師は答えに窮しておられました。しかし、私としては、この質問に対する回答は昨今のオレオレ詐欺やさまざまなセールスをする人とそれにだまされる人の存在にも関わっているものだと思います。
確かにこれらは犯罪であると誰でも分かっていることですが、実際にそれに引っかかる人たちがいるということも否定できません。つまり、親としての《子を思う愛情》や人間の持つ《心の弱さ》《隙間》に忍び込んで相手を思いのままに操ろうとするものが根底にあるのがこの犯罪の正体なのですが、これを権力者と民衆に置き換えれば、人間の心の弱さを利用した《権力者による支配と弾圧》にもつながるのではありませんか。そして、それが厳しくなってくると《抵抗》という行為が起こってくることは、歴史のあちこちに見られることです。
そう考えると、その根底にある支配者や権力者による人々への心理的支配が《宗教》というものを手段に用いた時、一方では《十字軍》のように相手を従わせる戦いにつながり、また一方では天草四郎のように抵抗する動きになったりしたのではないでしょうか。(その例で言うと、「お国のため」という言葉によって国民が一丸となって戦争に突き進んでいったのも、結局は同じなのかもしれませんね)
結局のところ、(私的には)宗教を利用して人々を支配しようとする者の思惑が人々に「宗教は怖いもの」という誤った意識を生み出しているのではないかと思います。心が弱く、様々な苦悩という《深い闇》にさいなまれている人々を救う《一条の光》が宗教の本来の姿なのですから・・・。

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