住職のひとりごと

鳥取市にある浄土真宗本願寺派のお寺、淨宗寺の住職日記です。基本は毎日更新です。

2021年05月

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今日は当寺の仏婦研修会の日です。原則として毎月の15日に行っていますが、盆月の8月とは報恩講法座がある11月は除いています。また、15日が土日となった場合には、その前後に移動します。そういうわけで(今月は15日が土曜日のため)今日(14日)に変更になっているのです。ただ、日程の方は約束事に従えばすぐに決まりますが、問題はその時に住職がする法話の内容です。先月は寺報にも述べていた《女性差別と変成男子》のことを話しましたが、「今回は何にしようか」といつも頭を悩ませることです。そこでフッと思いついたのが、先日に義母を連れて行ったあやめ池の情景でした。「いずれあやめか かきつばた」という言葉の意味については昨日もこの欄で書きましたが、その《アヤメ》と《カキツバタ》の区別の仕方と《菖蒲湯》に使われている菖蒲との違いから入って『歎異抄第3章』に飛び、親鸞聖人の称えられた《悪人正機》の真の意図にまでつなげられないかと考えています。頭の中では簡単に構成をねっていますが、さて、いざ言葉が口をついて出始めたらどうなりますか・・・・。
(今日の写真はエビネランです。残念ながら、植えた場所が悪くて育ちません)

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5月も今頃になると初夏の風を受けて多くの花々が一斉に開いてきます。以前この欄に写真を載せていた境内の3寸アヤメも寺前の袋川土手の黄色のアヤメも咲いていますし、倉吉のあやめ池では紫色のアヤメがあちこちで風に揺れています。それに岩美町牧谷の又助池ではカキツバタの群落が見頃になっているそうですが、「いずれアヤメかカキツバタ」と言われるほどよく似ているこのアヤメとカキツバタの区別は難しくて「一目で分かる」ということは素人には困難です。ただ、今朝の新聞にはその区別の仕方が載っていて、それによると生息する土地も水辺かそうでないかという違いがあったり、花の根元に網目があるのがアヤメで相でないのがカキツバタとか、葉よりも上に花が咲くのがアヤメでそうでないのがカキツバタだということです。でも、発生場所の違いや花の位置は別としても網目だけは顔を近づけないと判断できないでしょうね。
ところで、前述の「いずれ~」とは普通「いつかは~になる」という時間を表す言葉として使われていますが、ここでは「いずれ(どちら)が~か」という比較・区別を意味する言葉として使われています。同じ言葉でも使い方が違う例は多々ありますが、瞬間的にその違いを判断するということは案外難しいものです。しかもそれが形として残るものではない《言葉》であればなおさらです。後でいくら「あれは~という意図でした」と言っても、その時点で聞いた人には別の意味で伝わります。そのことを、特に国会議員を初めとして何かを代表する立場の人は意識してほしいものです。現状は非常に残念なことばかりですが・・・。

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毎年カラーの花を戴いているご門徒から今年もたくさんいただきました。さっそく今朝は本堂の供花を入れ直し、残りは玄関の壺に活けて飾りました。ただ、戴いた葉は全部本堂に使ったので、庭から2株の葉を切り取って玄関用に使いました。カラーからは香りが立ちませんが、この花はニセアカシヤの花と同様に初夏を感じさせます。
ところで、ニセアカシヤと言えば、20年以上も前に勤めていた高校には2度転勤して合計14年間いましたが、毎年車で砂丘道路を通勤しているとこの満開になっているニセアカシヤから独特の香りが漂ってきました。何でもこの花は「蕾状態の時に天ぷらにすると美味しい」とは聞いていました。しかし、さすがに背が高く伸びている木ですし、枝には棘もありますから登って取ろうとまでは思いませんでしたが、この岩美高校に通算14年も通いながら結局最後まで食べなかったものは、このニセアカシヤの花の天ぷらと現地では《ばばあ》と呼ばれている魚(タナカゲンゲ)でした。(見た目と違ってこの魚は美味しい」とのことでしたけれどね。青谷高校に通っていた時には魚見台の下の海岸で採れる貝が名物だとか、八頭高校に通っていた時には近くにあるパン屋だとか、今から考えると、生徒達に向かうことは当然として、いろいろ《校外活動》にも力を注いでいたように思います。懐かしい思い出です。
(残念ながら、ニセアカシヤの写真は撮っていません)

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昨日から始まったワクチン接種の受付ですが、日時を指定されると法務の関係から困るので、集団接種でなくて個人病院に申し込むことにしました。しかし、電話しても全くつながりません。一度切ってすぐにリダイアルするのですが、どこも話し中。40分ほどかけてやっとつながった病院では「予約数を過ぎた」と言われ、診察券を持っている病院でも「定期的にかかっていない人はダメ」と言われる始末。結局は最初から「ここ」と決めていた病院にかけ続けること1時間でやっとつながり、受付完了。もっとも、希望していた日は満杯のために別の日になりましたが、それでも時間的に余裕のある日に受付が出来たのは助かりました。そんな状態の中で聞いた国会での髙橋内閣参与の発言もですが、それに対する菅総理の{擁護}とも{逃げ}とも思える弁明には開いた口が塞がりません。やはり「いつでも接種が出来るし、入院さえ可能な立場」の人たちには泥沼の中に引きずり込まれようとしている国民の苦しみ[これを『塗炭の苦しみ』という]は理解不能なのでしょう。もっとも、それが分かっていながらなおかつ「分かってほしい」と願う方がバカなのかもしれませんが・・・。庭をのんびり歩いたりゆったりと身体を伸ばして昼寝をしている(野良)猫達は、一体何を考えているのでしょうかねぇ。

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「今回オリンピックを中止したら、日本は未来永劫開催出来なくなる」と某議員が述べていますが、《世界的危機》による中止判断がそんな結果を生むというのならば「IOCは《村八分》的存在」であることを容認しているのであり、そんな理由で「だから開催すべきだ」と堂々(?)と発言する国会議員は一体どういう存在なのでしょうか?また、強行開催に躍起になっている菅総理に忖度して「~だから安全なのです」と必死になって取り繕っている組織委員会の人たちと比べて、池江選手や新谷選手の言葉の方がこちらに直に伝わってくるのはなぜでしょうか??
松下幸之助氏はかつて「塩のからさ、砂糖の甘さは 学問では理解できない。だが、なめてみれば すぐ分かる」と言っています。これは《経験することの大切さ》を述べている言葉ですが、現在の教育では子ども達に《経験する》ことの大切さを教えていません。その好例が「危ないから、刃物を持たせない」というものでしょう。昔は小学校に入学すると必ず筆箱の中にナイフ(肥後守)が入っていました。「それを使って自分で鉛筆を削りなさい」ということで、子ども達は指を切ったりしながら《刃物を上手に使う方法》を覚えていきました。そんな経験をした人は自分自身で痛い思いをするからこそ刃物の怖さを知っているのであり、それを知っているからこそ、たとえ鋏であっても手渡す時には決して刃先を人に向けることはしません。つまり、《経験すること》の大切さとは《自分のものとする》ことを意味しているのです。しかし、今の組織委員会の人たちには結局「損か得か」しか目に映っていないようですね。あぁ、だから《損得⇔忖度》と言うのか。
今日の写真は(今は紫色の花が咲いていますが)蕾の時の紫蘭にしました。「そんなのしらん」って、おやじギャグですか。

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