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ここ数日の新聞(地方紙と本山発行のもの)に《死期》についての記事が載っていました。地方紙では『現論』の中ですが、保坂正康氏が「死者との回路を確認する」という題で自分における《別れの儀式》を書いています。また、それとは別の観点ですが、『本願寺新報』では老齢のご門徒と住職との会話を基にしてその老女の遺言(「自分が死んだら~してほしい」のようなもの)的なものを書いておられますが、そこでは結局「どこにしまえば一番いいか分からない。まぁ、まだ元気だからゴミ箱に捨てておく」とのこと。ここに登場している2人は《後期高齢者》に《超》がつくほどですが、それでも「まだ元気だから~」には参りますよね。でも、誰でもいつか必ず《死別》に出遭う時が来るのですよね。
ここ数年はコロナ禍で「葬儀は身内だけ」(『家族葬』と称している)が当然のようになっていますが、葬儀は身内との別れであると同時に今までお世話になってきた方々へ感謝を伝える時でもあるはずです。もともと人間はひとりでは存在出来ないのであり、多くの親の命の鎖を受け継いでいるからこそ今の私があると同時に、様々なものに守られ支えられているからこそここに存在出来ているはずです。その意味で、墓参りも自分に命を与えてくれた数多くの先祖に感謝すると同時に「我に任せよ」と誓われた阿弥陀如来に向かわせていただく一時でもあるのですが、どうも近年は悲しいことに本質が抜け落ちてすべてが《形骸化》しているように感じられます。