住職のひとりごと

鳥取市にある浄土真宗本願寺派のお寺、淨宗寺の住職日記です。基本は毎日更新です。

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今朝は快晴。このままいけば、午前中には濡れた参道も乾くことでしょう。
ところで、昨夜は20時頃に電話が入りました。受話器を取った時に同時にもう1本入っていることに気づきましたがどうしようもなく、しかもその相手は電話料金の値下げがどうのこうのという内容。「もう1本電話が入っているので・・・」と言って慌てて切りましたが、まったく同時にかかるのは困りものです。受信装置を切り替えればいいのでしょうが、そのことを相手に伝えて次の電話を受けても、その内容によっては簡単に切り戻すことが出来ない時もあります。今回のもう一方の電話はご門徒の娘さんからのもので、坊守が対応して後から大体のことを聞きましたのでとりあえずは無事に済みましたが、「1秒違っておれば・・・」と世間でよく言われる言葉が納得できたことです。
お寺はもともと職業分類から言えば《サービス業》になるそうですが、それには関係なくどんな時でも受け答えできる態勢を整えておかなければならないので、現在は外出する時でも電話は携帯に切り替わるようにしています。しかし、大阪万博の時に世界で初めて登場した携帯用の電話がここまで世界的に普及した今は「1家に1台」どころか「1人に1台」という状態であり、名簿に記載してある固定電話の番号に掛けてもつながらない場合が増えてきました。しかも、現在はポケットに入れる形式ではなくて腕時計のようなものまであるとのこと。そう言えば、以前に街を歩きながら《独り言》のように話している人がいて驚きましたが、耳にかけてあるものが受話器だったのですね。
(写真は、新芽が出てきたヒガンバナです)

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「禍福はあざなえる縄のごとし」とか「捨てる神あれば拾う神あり」等と表裏一体のことを表す言葉は多くありますが、周りに目を向けて自然界を眺めても同様のものが多く見られます。たとえば、散った花のそばで新芽を伸ばしている植物の存在等も同様で、境内を歩いてもそんな情景があちこちで見られます。台風14号は襲来しませんでしたが秋雨前線を刺激して降った雨に打たれ、キンモクセイの木の下では散った花が地面をオレンジ色に彩っています。また、半年前には満開になって人々の目を楽しませていた桜並木も、今では赤茶色の葉が木々を覆っています。そんな中でも盛りを過ぎてしぼんだ彼岸花の花の根元には新しい葉が伸び始めていますので、古いものが散っていっても新しいものが常に次の命を生み出そうとしているのでしょう。このように、どこを眺めても新旧の交代する自然界の様子がはっきりと見られるのが秋なのかもしれませんね。しかし、昔から文学にも「秋はなんとなく心さみしくなる」というフレーズが使われてきたように、やはり秋は「次の春が来るまでしばしの休息」という時間なのかもしれませんね。(だから、《秋の夜長》に対して《清寂》という言葉がつながっているのかも・・・)
でも、秋から連想される「秋ナスは嫁に食わすな」という言葉は、正しくは《嫁いびり》ではなくて相手の体調に気を配っている意味だそうですね。表面的な意味にとらわれないで、正しい使い方をしなければ言葉一つでケンカも起こりますから、「◯心と秋の空」の使い方にも気をつけた方がいいですよ。

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「食欲の秋」です。この季節になると(松茸は絶対に無理ですが)必ず目につくものが栗と柿ですよね。親戚には柿の木が多くあり、子供の頃は従兄弟達といつもそれを取っていました。もっとも、私は木登りがダメなのでいつも下で受ける係でしたが・・・。しかし、半世紀以上前に雷が落ちて木が倒れたとのこと(母は、その木から作った茶托を記念に貰いました)でもうその柿の木はありませんが、いつもその家を訪れると「あ、ここに二股に分かれた柿の木があったなぁ」と思い出します。それに対して《栗拾い》は今もってしたことはありませんが、いただいた栗の《鬼皮むき》はここ数年の私の仕事になっています。なにしろ、鬼皮むき専用の鋏を使うのにすっかり慣れましたからね。先日も栗を持って来られた方があり、その場におられた方々から「じゃあ、これで栗ご飯を炊きましょう」という声が出たのはいいのですが、問題なのは《鬼皮むき》。そこでさっそく事務仕事をしていた私に声が・・・。そんなことでちゃんと仕事をしたので、お昼には堂々と(?)栗ご飯を頂戴しました。ごちそうさまでした。
蛇足までに、鳥取県の中部で採れる栗【ぽろたん】は、切り目を入れて熱するだけで焼き栗のように鬼皮もしぶ皮も一緒にむけるそうですよ。

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早朝のラジオニュースで、山口の温泉施設で利用者に開放していた『鬼滅の刃』20巻が持ち去られたと放送していました。そこで「持ち去った人は、そっと戻しておいてください」とSNSに書き込んだところ、その言葉に感動した全国の人から190冊もの『鬼滅の刃』が贈られてきたそうです。中には「私に出来ることは何か考えて、持っていた全巻セットを送ります」と書いてきた人もあったとのこと。「施設ではそのすべてを利用者に解放して呼んでもらっている」とのことでした。この漫画は大変な人気で一時は№1から№10まで販売数トップという作品になったこともあり、現在でも小説本からフィギュアまで売れに売れていて、舞台作品にもなっています。(そう言えば、今日の番組欄に物語の後半と映画版とが放映されると書いてありましたよ。別の放送局ですがね)
ところで、この作品が人気を博した理由の一つに、「退治した《鬼》に対してもその悲しみと苦しみを自らのものとしている主人公の気持ちに心打たれる」というものがあるそうです。まさに《仏の慈悲心》と同じものなのでしょうが、アニメに出てくる少年にさえあるこのような心が現在の人達に見られないのが悲しいことです。特に学問の自由さえ《文言の正当性》という自己中心の理由をこねくり回して任命を拒否する菅総理には幻滅します。本気でそれが正しいと主張するならちゃんと皆が納得するように説明責任を果たしてほしいものですが、それさえも《無視》している現状ですからね。苦労してきた過去を自慢げに持ち出した上でこの態度では、まるで自分の力を誇示し、金ピカの茶室に憧れた《太閤秀吉》そのものではないかと疑いたくもなりますよ。

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猛暑でほとんどが倒れてしまったジンジャーですが、数本残していたものに花がつきました。しかし、今年は去年ほど香りも強くなく、キンモクセイの強い香りに身をすくませているようです。
ところで、10月も1週間過ぎた昨今に目につくものは、なんと言っても遊歩道に植樹してある立木からの落ち葉でしょう。道路は当然のこと山門や境内の参道にも落ち葉が吹きだまりになり、特に台風の後は大変です。路上ならまだ掃き集められますが、溝にたまればどうにもなりません。秋になると東京の公孫樹や京都の紅葉のようにわざわざそれを見るために人が集まってくるほどきれいなものもありますが、遊歩道の植樹は「紅葉して美しい」というものでもなく、枝が伸びれば街灯を隠すし、通行する人の顔に横から伸びた枝が引っかかって邪魔にされる木(ほとんどの人が木の名前さえ知らない)で、大通りでは毎年のように植樹の枝落としをするのに市道では植えっぱなし。住民から苦情が出て初めて見に来る程度(除雪もしないから、積雪があると人は車道を歩かざるを得ない)でツツジが枯れても放りっぱなしの遊歩道ですが、ここも「自助、共助」優先なのでしょうか?


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「台風14号は、今年初めて上陸の可能性がある台風になる」と天気予報で言っていました。その台風が太平洋側にある秋雨前線を刺激して鳥取でも夜中から雨になっており、そのせいで洗濯物の乾きが悪いのか、乾燥機のある市内のコインランドリーでは車の出入りが多いようです。
今日は秋分の日から数えて15日頃に当たる24節季の中の《寒露》ですが、その言葉通りに気温も下がり、東京では「15度までならなくて寒い」とニュースで言っていました。当寺では婦人会の方達が集まる居間はまだ籐の敷物ですので、もういい加減に絨毯に替えないと皆から「寒い」と言われそうです。まぁ、物事にはすべて順番があるので、敷物を取り替える時には本堂の扇風機も片付けられるし、温風機も物置から出せるので、この土日あたりがその作業になることでしょうね。もっとも、敷物の取り替えは本堂だけでなく客間や仏間もあるので、すべてを取り替えるのはとても坊守と2人だけでは不可能ですが・・・。
この冷気を浴びながら庭ではホトトギスが蕾を膨らませてきました。墓参りをする人の足下まで伸びているので相当数切って花瓶に生けましたが、もう少ししたら薄紫の花弁を開くことでしょうね。少し楽しみです。


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この『独り言』を書く時、最近《うっかり》が多くなりました。今日も書き終えていたものを保存させないで他の画面をクリックしてしまい、文面が消去。また書き直しです。トホホ・・・
ところでここ数日の朝晩は気温の低下が厳しく、昨夜もTVを見る時に毛布を足に掛けないと過ごしにくい寒さでした。居間に置いていた扇風機を片付けたのはわずか2日前でしたが、この調子では早急に暖房機の準備も必要になりそうですね。本堂の扇風機はまだ外陣の横に置いていますが、これは物置にしまっている温風機と交換にしないと置き場所に困るからです。四季の変化に伴う「使わない物を片付けて必要な物を出す」作業は、《衣替え》とともに大変な仕事です。昨日は温風機に使う灯油を早めに準備するために購入しに行きましたが、冬の風が吹き始める頃に比べるとまだ安価でした。なにしろ、18ℓが1100円程度でしたからね。第3のビールも値上がりしたことですし、とにかく少しでも《家計の手助け》になることを考えて動かないといけないようです。
そう言えば、今週末は台風14号の影響が出そうです。お互いに気をつけましょう。(11号台風で折られた鉢植えを株分けしました。うまくつけばいいのですが・・・)

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2週間前になりますが、県外のご門徒がお彼岸の時に帰鳥されて母と兄の2人のご法事を勤められました。ご自宅での法要を希望されましたのでお仏壇の前で読経させていただきましたが、読経後に「ここでお勤めさせていただくと、いつも折り紙のことを思い出しますよ」と話しました。もう20年も前になりますが、お盆参りの時にお仏壇の中に折り紙の花などが置いてあり、「孫が作ったものですが、そこに飾ってもいいでしょうか?」と聞かれましたので、「いいですよ。きっと仏様も喜ばれますよ」と答えました。その後しばらくして何気なく新聞を読むと、『手鏡』の欄にその時のことが載っていたのでビックリ。『手鏡』の筆者はペンネームになっているので分からなかったのですが、実は私に折り紙のお供えのことを聞かれた方だったのです。今回のご法事で「その時の《孫》がこの子ですよ」と紹介されて恥ずかしそうにしておられましたが・・・。その方は病気で身体の自由が奪われた後も新聞に詩を投稿され続け、私もそれに対する感想を送りましたが、その方ももう13回忌。滋賀までお見舞いに行った時がお会いした最後になりました。お盆の度に目にとまった庭の草花も「誰もいないので手入れが出来ないから」ということで石庭に変わっていましたが、どんなことでもみんな懐かしい思い出としていつまでも残っていくものなのですね。
(写真は、昨日の『独り言』で書いたキンモクセイです)

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夕べは雨が降ったのか、今朝は敷石が濡れていました。扉を開けて外に出ると、フッと漂ってくる懐かしい香り。そう、金木犀の香りです。庫裡の裏口側には屋根を越えるほどに伸びた金木犀の木がありますが、いつもなら明るい時間なのに今朝は薄暗く、見上げても枝葉の中に何も見えません。しかし、それでもじっくりと見ると、枝の先にかすかに色づいたものが見えたので納得しました。「あぁ、今年もこの季節になったのだなぁ」と。昨日まで目につく花はヒガンバナと秋明菊ばかりでしたが、今日からはどこからともなく香ってくる金木犀を探して歩く日が多くなることでしょう。
この金木犀の香りから浮かんでくる二つの記憶。一つは結納の明くる日に同僚と行った蒜山高原で見た風景で、もう一つは同派寺院のご住職のお見舞いに京都まで行った時に駐車場から病院まで歩いた通路で漂ってきた香りですが、どうも金木犀の香りからは《辛いもの》《悲しいもの》は連想されないようですね。(もっとも、都会の子供達にとって連想されるものは《トイレの香り》だそうですが・・・)残念ながらまだ写真が撮れるほどではないので、今日はゆずの写真にして、金木犀はまた後日に。

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『大伴家持大賞』で発表される優秀作品にはいつも感動しますが、今年もまた素晴らしい作品が多くありました。大賞の「下の名ではじめてきみに呼ばれた日ぼくの名前は温度を持った」という歌から伝わってくる、相手に初めて《恋人》と認められた時の喜び。もっとも、それがいつの時なのかはこの歌だけでは分かりませんが、私としては《中学生の初めての恋》であった方が、その喜びがより強く伝わるように思います。中学時代の恋は、大抵が「相手に思いを伝えきれなかったまま卒業を迎える」という流れですから・・・。しかし、制服も学生服に変わってブレザーがほとんどになっている現在では、「胸の第2ボタンをください」と言う女生徒の思いは理解できないかもしれませんね。また、仙台の学校で行われていた《白線流し》という伝統行事に込められた卒業を迎えた者達の気持ちも、セーラー服や学生帽がなくなった今では伝わらなくなったかもしれません。私たちが古いものに《郷愁》を感ずるのは「歳をとってきたから」かもしれませんが、やはりそこには懐かしさとともに青春時代の甘酸っぱい思い出が浮かんでくるせいなのでしょうね。ITやPCが生活のすべてになっている今の人たちの50年後にはどんな思い出が浮かんでくるのか、興味とともに不安もありますが・・・。

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