住職のひとりごと

鳥取市にある浄土真宗本願寺派のお寺、淨宗寺の住職日記です。基本は毎日更新です。

九州は沖縄県も含めて8県ですが、その中の5県に警報が出ています。中でも球磨川は一級河川でもあり、同じ一級河川の千代川が心配になりました。当寺の前にも川(袋川)が流れていますが、何年も前に河川工事で新袋川が整備されたので水はそちらに流れ、「昔は河口から舟が登ってきた」と言われた袋川も今では水量が減っています。その袋川もこのような大雨では水量が増しますが、殆どはのり面の上くらいで収まっていて、高校時代(50年前)に県庁前の増水で漕ぎ出された小舟の姿が最後の記憶です。
報道にもありましたが、わずか数十分程度で車が流されるほどの大量の水が襲ってきたときの恐怖はとても筆舌に尽くせないことでしょう。しかし、毎回言われている「50年に1度の・・・」とか「未だかつてなかった」との定型句がもはや《常套句》ではないかと思われるほど繰り返される今、根底から災害対策を考え直さなければならないのではないでしょうか。

昨日は本堂と仏間の花生け。仏間はサッと(簡単に)出来ましたが、本堂はいくら3ケ所(本尊と両脇)とは言ってもやはり時間も体力も必要です。本堂の耐震工事の時に庫裡も改装して水場を本堂の近くに設置したので楽になりましたが、それまでは亡母も私も後門が花生けの場所であり、狭い廊下と遠い水場で苦労したものです。その頃に母から花瓶の後ろ側に太い枝や板を差し込んでしっかりと留めることも教えてもらいました。今はオアシスや赤銅の筒を使って生けていますので昔ほど体力が必要ではなくなりましたが、それでも年齢が進むにしたがって体力は落ちますので、結局は「花生けは《体力勝負》」とは縁が切れそうにありませんね。とりあえず、これを書き終わったら花を長持ちさせるために花瓶の水を取り替える作業に取りかかりましょうか。
境内では紫陽花が既に終わりを迎えても真夏の代表であるサルスベリはまだ蕾状態ですが、昨日は市内のあちこちで薄紫や白の木槿(ムクゲ)が咲いていました。これを見ると、やはり「夏近し」なんですね。

いよいよ明後日は永代経法座ですが、今年はコロナ禍で山口の御講師には(県をまたいでの移動自粛もあり)お詫びの連絡をして私が法話をすることになっています。《3密》の関係もあって毎年2日間だったものを今年のみ1日だけと総代会で決りましたが、今日は午前中に月参りがありますので、供花の準備は午後から。打敷やお供えは明日の予定ですが、問題なのは夏は供花があまり長持ちしないこと。薬を入れたりしていろいろと工夫するのですが、やはり一度茎を切って土から引き離したものはどうしても長持ちしませんね。特に茎が細いものは水揚げも悪いし、かといってグラジオラスの花は開くとすぐに萎れるし、向日葵は葉が黄色になるし、アカバンサスはすぐにパラパラと散るしで、花を選ぶことにも苦心します。以前に華道の先生から「ミョウバンを切り口につけると、水揚げがいいですよ」と言われていましたし確かに今までもその効果は十分にありましたので、とりあえず今度もそうしてみようとは思っています。もっとも、花の種類によっては水揚げの方法が違い、蓮は茎に水をポンプで入れる(最初にホースに水を入れておくと水が吸い上げられるのと同じ原理)方法ですし、「ススキはウィスキーや焼酎につけてからにするといい」とか・・・。こうなると、花生けも《工夫》と《体力》勝負なのですね。

 夕べはお通夜参りをさせていただきました。盆参りの時にはいつも抹茶を立ててくださった方ですので、そんな思い出も加えながら話をさせていただきました。しかし、ちょうどコロナ禍の時期に入院しておられたとのことで、「それでは、なかなか見舞いにも行けなかったのではありませんか」と言うと、「入口で着替えを渡すだけとか、たとえ出来ても5分程度でした」とのこと。自粛も解除されてやっと見舞いが出来るようになった途端に出た今回の4人目の陽性反応ですが、これでまた以前のようになるのでしょうか。当寺のこ門徒にも怪我等で入院されている方がありますので見舞いに行きたいのですが、もしかすると「家族以外はダメ」と言われるかもしれません。10年以上前にも病室まで見舞いに行かせてもらえないことがありましたが、それが家族であればなおさら行く方も待つ方も会えないのは寂しいことでしょうね。一日も早くコロナ禍が収まってほしいものです。

コロナ罹患者が東京では2ケ月振りに100名超となりました。遠く離れた鳥取では「大変だなぁ」程度に感じている人も多かったことと思いますが、それに冷や水を掛けるようなテロップが夕べ8時前に入りました。
普通なら数秒で消えるはずのテロップが30秒近く出たままですので心配になり、その詳細が知りたくてすぐにニュース番組の有無を調べましたが、あいにくと1時間後。やっと地方版の番組を探して知事や市長の報告を聞きましたが、2人とも言葉がくぐもってよく聞き取れません。普段でも口をハッキリと開ない発言は聞き取りにくいものですが、今回はマスクをしているので余計に口が開けられなかったせいか余計にくぐもった発言となったのでしょう。音量を上げて耳をそばだてても何を言っているのか分からず、直後に画面に出る報告のまとめでやっと最小限のことは分かりましたが、これからは台風による避難情報等の報道も出てくるでしょうから、このような緊急事態時における内容を放送する場合には、視聴者にとって「聞き取りやすく理解しやすい」ものにしていただければ幸甚です。

 以前に本山の図書購入補助券を使って数冊の本を購入したことを書きましたが、その中の『羽の水』という仏典童話集に『旧雑譬喩経』から採った『羽の水』というものがあります。ヒマラヤの麓の竹林に住んでいた1羽のオウムが、竹林の火事で仲間が死にそうになっているのを防ぐために羽に水を含ませて竹林と池とを何度も往復する、という話です。釈尊は聞いている人に合わせてたとえ話を替えて説かれたそうですが、そのたとえ話は釈尊の創作だけでなく昔から伝わっていたものもあります。先週の新聞に、コロナ禍で困窮している南米エクアドルの人達を救うためにそこのプロチームでプレーしていた元サッカー選手を中心にした支援活動があった記事が載っていましたが、その名前が《ハチドリのひとしずくプロジェクト》でした。この名前は現地先住民の民話にあった山火事を消すために一滴ずつ水を運んだハチドリからつけられたものですが、仏典童話とまったく同じ内容に驚くとともに、「他を救うために身を削って努力する」ことの素晴らしさを伝える話は国や民族に関係なくあることを知らされました。
たとえ大切な議会に出席しなくても我々からすれば「目を見張る」程の満額の給与や賞与を貰える議員に聞かせたい話ですね。

 よいよ今年も半分が過ぎ、今日から7月(文月)に入りました。7月の永代経法座と8月の盆参り等、ますます多忙の日々になりそうです。
 ところで、盆参りと言えば鳥取市仏教会が毎年8月15日に実施している《精霊送り》の内容が決まったそうです。若桜橋の下で実施した年もありましたが、殆どは先代川の土手で実施していました。しかし今年はコロナ禍もあってどうするか検討していたそうですが、結局「建物内なら雨天でも可能」ということで、市内の葬儀社の協力を得て実施するそうです。しかし、いくら「消毒をしっかりする」とは言ってもこの行事にお参りする人は多く、島根方式のように《焼香がすんだ者はそのまま帰る》ということになるのでしょうか。もっとも、浄土真宗では「仏は常に側にいてくれる」という教えなので「仏がやってくる」とか「帰る」という考えはなく、したがって《迎え火・送り火》もなければ精霊送りもしませんが・・・。とにかく、当寺も盆参りがありますから、早く収まってくれないと困るのですがねぇ。

6月も今日で終わり。年明けには雪がまったく降らなくてスキー場も困っていましたが、まさかその2ケ月後にこんなことが起るなんて予想だにしていませんでした。そして、コロナコロナで明け暮れた4~6月でしたが、その6月も今日で終わり。今年も半分が過ぎたことになりますが、明日からは新たにレジ袋の有料化が始まります。
ところで、この有料化の構想は以前にもありました。その時の理由は「石油の消費を抑えるため」でしたが、今回は「海洋汚染(マイクロチップによる汚染)を抑えるため」とのこと。そのため、政府からは「植物性バイオマスが25%以上含まれているものは無料」との指示もあり、そちらに切り替えて無料を続ける店も出ています。しかし、レジ袋はプラゴミの中のわずか数%である上にバイオマスが入っているものが「環境に優しい」ことは全くなく、逆にバイオマスの材料を作るためには大量の植物が必要になり、そのために多くの樹木やトウモロコシ等の植物が刈り取られるので、逆に酸素を生み出す森林が減少する原因にもなっています。しかも、「環境に優しいから、捨てても土に戻る」と言われているそのバイオマスの袋ですが、捨ててもプラ部分は溶けないし、バイオ部分も腐食した時には一酸化炭素やメタンガスを吐き出すので逆に「温暖化現象」の一因でもあり、国連でも警鐘を鳴らしているのですがねぇ。本当に、政府による説明は「すべて結論ありきの後付け」なのだということがよく分かります。

過日「蒸し暑い」と書いたのがきいたのか、今朝はさわやかな一日の始まりになりました。じっとりとした空気よりも青空とサッパリとした空気には、やはり心も軽くなりますよね。
ところで、ローリング・ストーンズと言えば我々の年代には懐かしいグループですが、今朝のニュースで「トランプ氏が自分たちの曲を勝手に使うことを禁ずる」と宣言したとのこと。「これを破れば法的処置を執る」とまで言っているそうですが、その辺はやはりアメリカ的ですね。「自分の言いたいことははっきりと伝える」という強い意思とそれに対してハッキリと是非を伝える司法の態度には今の日本(政府関係)も見習ってほしいものです。新聞を隅から隅まで目を通すことから一日が始まりますが、特に最近の報道には1本心が通ったような記事が少ないように思われます。それが日本的な《玉虫色表現》なのかもしれませんが、少なくとも忖度だらけのコメンティターや芸能人の不倫に時間を割くような番組は見たくもありません。

当寺では年間5回の時報発行をしており、前号では「自慢」について書きました。「《慢》は《慢心》の意味で、自分を人よりも高い位置に置く心を意味する」というようなことを書き、最後に「《我慢》も同じことですよ」と結んで終わりましたが、昨日おいでになったご門徒から「どうして我慢が同じなのですか」と尋ねられたのです。《我慢》は確かによく使われる言葉で、「我慢しなさい」とか「よく我慢したね」というようにいい意味として使われます。「それがどうして《自慢》と同じなのか」と言う質問でしたので、こう答えました。「確かに《我慢》はいい意味でよく使われます。しかし、我慢をする人にとっては、『自分はもっと出来るのに』とか『どうして自分が・・・』という反発する気持ちを押さえつけることになり、もともとそんな気持ちがないならば『押さえつける』ことをする必要もないはずです。その意味で《我慢》も同じなのです」と。勿論「自分の方が上」だという意識を表に出す《自慢》と押さえつける《我慢》とは本質が違っていますが、根底においては似たようなものを含んでいますよね。
言葉は使う場所や場面や相手(TPO)によって意味が違ってくることもありますからよほど意識して使わないと大変なことになりますが、何故か政治家の言葉ほどは「軽い」ものはないですね。

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