今月の下旬までの予定で慶讃法要の第2期が勤められていますが、それに合わせるように『本願寺新報』には新しい『領解文』(浄土真宗のみ教え)をお参りの方々と一緒に唱和したことが載っています。そこで、今まで研修会等などで声を揃えて唱和していた『領解文』とどう違うのか比べてみようとA4判の紙上下に記載してみましたが、「時代に合わせて分かりやすく」との思いで作られた今回の『領解文』に対し、やはり蓮如上人の時代から長い間自身のご法義の受けとめ方を表出するために用いられ、時として我々も口ずさんでいるものの方が刻み込まれているように感じられます。
しかし、それとは別に、『領解文』という言葉は前述のように「自分自身の法義に対する受けとめ方」が目的であるのに対し、《浄土真宗のみ教え》という言葉は「門信徒へ伝える」という逆の方向性を持った言葉なのではないだろうかと受け止めるのは間違いなのでしょうか?
それはそうと、昨日の写真にあったベコニアはお彼岸の時に花店から戴いたものを大きな鉢に植え替えたものです。ただ、横に広い鉢なので根がうまく育つか心配ですが・・・。
しかし、それとは別に、『領解文』という言葉は前述のように「自分自身の法義に対する受けとめ方」が目的であるのに対し、《浄土真宗のみ教え》という言葉は「門信徒へ伝える」という逆の方向性を持った言葉なのではないだろうかと受け止めるのは間違いなのでしょうか?
それはそうと、昨日の写真にあったベコニアはお彼岸の時に花店から戴いたものを大きな鉢に植え替えたものです。ただ、横に広い鉢なので根がうまく育つか心配ですが・・・。
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