当寺では年間5回の時報発行をしており、前号では「自慢」について書きました。「《慢》は《慢心》の意味で、自分を人よりも高い位置に置く心を意味する」というようなことを書き、最後に「《我慢》も同じことですよ」と結んで終わりましたが、昨日おいでになったご門徒から「どうして我慢が同じなのですか」と尋ねられたのです。《我慢》は確かによく使われる言葉で、「我慢しなさい」とか「よく我慢したね」というようにいい意味として使われます。「それがどうして《自慢》と同じなのか」と言う質問でしたので、こう答えました。「確かに《我慢》はいい意味でよく使われます。しかし、我慢をする人にとっては、『自分はもっと出来るのに』とか『どうして自分が・・・』という反発する気持ちを押さえつけることになり、もともとそんな気持ちがないならば『押さえつける』ことをする必要もないはずです。その意味で《我慢》も同じなのです」と。勿論「自分の方が上」だという意識を表に出す《自慢》と押さえつける《我慢》とは本質が違っていますが、根底においては似たようなものを含んでいますよね。
言葉は使う場所や場面や相手(TPO)によって意味が違ってくることもありますからよほど意識して使わないと大変なことになりますが、何故か政治家の言葉ほどは「軽い」ものはないですね。
言葉は使う場所や場面や相手(TPO)によって意味が違ってくることもありますからよほど意識して使わないと大変なことになりますが、何故か政治家の言葉ほどは「軽い」ものはないですね。
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